アイデンティティを模索している

自分の知識を整理して発展させられたらいいなぁという願望の元スタート。学ぶことで私のアイデンティティは確立されるのか。くだらないこともうだうだと。

「沈黙ーサイレンスー」感想

今日は映画を二本見てきた。

一つ目は「ミス ペレグリンと奇妙な子どもたち」

うん、普通に面白かった。子どもたちがワンピースの能力者のように見えた。時間の移動が1943年なのか、2016年なのかよくわからなくなったが、取り合えず面白かった、といえるだろう。

 

二つ目は「沈黙ーサイエンスー

本日の主役となるものだが、ここから考えられることはたくさんある。私の経験に重ねて感想を言えるほどここまで過酷な経験をしていないので多くは言えない。しかしこれからこれらを気にして生きていくことはできるだろう。ここまで滑降した人たちがいることは変わらない。私の考え、言葉一つで彼らの言葉を、気持ちを、信仰を否定することも影響を及ぼすこともできないんだろうと思うと、自分の無力さがよくわかる。この歯がゆさはすべてここに吐き出されることになるわけだが。

 

日本にキリスト教は根付くのか…とか考える以前に、宗教の意義とは何だろう。生きるための拠り所、安心を与えてくれるもの、人それぞれだ。映画の中では宗教を貫き死んでいった人が多く描かれていた。なぜ宗教のために死ぬのだろうか。すべて生きているからこそ価値があるものである。健康のためなら死んでもいいって言っているものでしょう?

死んだらパラダイス(天国)に行ける、働かなくていいし、年貢もない。苦役もない。映画の中で神父はそう言っていた。これらがないことが幸せなのか。苦役を体験するから幸せがわかるんじゃないのか。すべてから解放され、しがらみがない身軽さが幸せなのか。苦役といえるほどの体験をしていないから断言できないけど、ずっと昔から私たちには労働がついて回るし、税金があるから国があり、帰属意識が生まれ、戦が勃発するのだろう。すべてから解放される価値があるのか、なんて思ってしまう私。

 

後期の授業で仏教論をとっていた。西洋人にとって仏というのは道徳を説く人間であり、創造主ではない、と述べていた。映画でもそのように描かれていた。創造主、絶対神唯一神。これらを盲目的に崇拝するのは恐ろしい。異物を排除する。ほかの声に耳を傾けられなくなってしまう。布教活動をする理由は、彼らがこの宗教によって救われる存在だという意識があるからだろうか。それは潜在的に私たちは落ちこぼれという意識があるのだろうか。宗教の意識、考え方、あり方は長い年月を経て、変容し、世俗化してきた。偶像崇拝をもともと禁じていたキリスト教仏教。いまは仏像やら十字架やらがそこらじゅうに散らばっていることを再認識させられる。

キンジローという男が何度も主人公の周りで許しを乞うた。彼は何度も踏み絵をし、唾を吐きかけ、生きながらえた。そしてそのたび許しを請うのだ。キンジローは生きることに執着していた。しかし宗教を、自己を曲げて生きながらえることを私たちは心の中で批判的にみていしまうのではないだろうか。最後まで宗教を捨てずに、拷問され、つるされ、火あぶりにされ、溺死した教徒を、なんて心の強う人だろうと思ってしまっているのではないだろうか。決して悪いことではないけれど、私はおろかに思えてしまった。神の分身たる板を、十字架を踏むことという行為が、あなたのすべてを、宗教を否定するのですか。ただの徴を踏むことはそんなに、つらいのですか。人生をかける価値がありますか。キンジローは生きるということを理解していたと思う。生きるから後悔するんだ。自分がしでかしたこと、弱い自分を。要領よく生きることはいけませんか。自分を曲げることは確かにつらい。でも身体もいたい。心と体はどうしても別々なんだよ。

 

日本は八百万の神神仏習合仏教神道、寺、神社、入り乱れた国なのに、キリスト教はそこまで根付いていない。ハロウィンもクリスマスもあるけれど、形式だけ。

コマーシャルを見ていると、日本人と外国人、外国人のモデルなどなどたくさん登場していると思う。明治維新から現在にかけて、日本人は外国人に対して大きなコンプレックを抱いている。憧れと。けれど宗教に強く焦がれる人はあまり身の回りにいない。

役人はキリスト教徒に踏み絵を強要する際、ただの形式だと何度も言った。彼のその発言は、自分の今までもただの建前だけで生活や思いを否定される。それは強要されたものだけれど、自分自身によって否定される。だからつらいのかもしれない。

 

宗教に身を投じても、結局行動するもの、決めるのも自分自身。主人公もそうだった。彼が祈っても返ってくるのは沈黙。日常的に神に祈り、神は助けてくれないじゃ泣きかと絶望する人は今までたくさんいたのではないだろうか。宗教の価値は救いじゃない。普遍性でもないように私は思えた。普遍的で絶対的で揺るがないからこそ身を、心をゆだねることはできるけれど、真の価値はそこではないように思えてならない。主人公とともに悩み、苦しんでいる。だから踏めと神は言った。苦しんでいる人を救いたいのは自分である。救いは誰のためなのか。

 

土地が変われば、根は張らず、実らず、茂らず、咲かない。変化を求めることか、それとも郷に入って郷に従うべきか。時と場合に寄りすぎる。だから曖昧で儚いのだ。

キリスト教のものの検閲に主人公は最後協力をしていたが、死ぬときは手の中に十字架を持っていた。彼は最後までキリスト教徒だったと思う。ただ、祈る価値や偶像に寄り添う意義がないと思ったのかもしれない。

 

相変わらずまとわりのない文章だが、宗教問題はずっと昔から続いている。これからも続くだろう。だから忘れずにありたいと、考え続けたいと思う。